前回からの続きになります。
もう一つ、最後のイメージは「私」を表すガラスのビー玉です。
ビー玉は透明でピンク(父)と水色(母)の模様が散りばめられており、思春期の私はこれが「いつも混ざり合わないなあ(混ざり合ったら楽なのに!」と想像していました。
このビー玉は、つい最近まで何であるのか(何でも無いのか)が分かりませんでした。
ただ、「私」といえば、透明のビー玉を思い起こすなあ、という一連のイメージでした。
しかし、今まで2つの「心」が全て仏教(唯識)に勝手につながっていたので、
不思議と何かのキッカケで知るかもしれないと思っていました。
数年前、「運慶」の展覧会で仏像を沢山観ました。(その時は気づかず、またまた後々時差的に気づいたのですが!)
運慶の仏像には「像内納入品」という内部に秘密の大切な経典などを納める空間がありますが、その運慶仏像の内部には、木柱(舎利と言います)が立てられ、
丁度、心臓の位置に小さな水晶玉をくくりつけてありました。(これを「魂」として「心月輪」というそうです。)
水槽の層(八識)や、おかっぱの女の子(如来)、そしてビー玉(心月輪)という、
子供の世界に変換されたかのようなイメージと、それが仏教でもヨーガに近い「唯識」に共通性があるという発見は、ちょっと驚くべきものでした。
私には、それが自然と「あった」のですが、不思議でなりません。
次回その④(ラスト)に続きます。
朱音
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