…前回からの続きです。
「瑜伽行唯識派」は仏教の一派ですが、
その中でも「如来蔵思想」は
仏教の中でも、非常にヒンドゥー教的な発想で、胸の中に「如来」が存在する、と設定しています。(仏教は基本、何か普遍的なものが「ある」とは定義しませんが、如来蔵思想は「ある」のです。)
これはヨーガ哲学の「アートマン」(肉体に宿る魂=宇宙と同じ)と言われる存在としか思えませんが、
だからこそ「瑜伽行唯識派」「ヨーガの行によって悟る一派)という、肉体の修行を経て悟りを目指す派閥とされています。
私の中の女の子は、
私が「苦しいけれど、悲しいけれど、つい無理に笑ってしまう時」
というシチュエーションのみに現れる存在でした。
そして20代の、病気の1番苦しい時期に
「そうやって子供の頃からいつでもいたのに、今、気がついた。昔からずっと居たんだ。なぜ今頃気づいたんだろう?」
と思いつくという、非常に不思議な体験をして、何とも思わずに放っておいたのですが、
更に30代でヨーガ行が身につき始めてから「如来蔵」という言葉を知り、そこにその共通性を見たのです。
「気づき」とは一斉に、大量に起こるとは限りません。
小さな気づきが、何かのきっかけで繋がって、更なる「気づき」になる事もあります。
ヨーガをやっていると、体や心について考えたり感じたりする事が多いですから、
その分「気づく」ことも増えます。
すると、いつの間にか歴史的な、普遍的な「共通性」を垣間見てしまう事があり、
それが大きな「悟り」になるのかもしれません。
そうやって時空を越えて、
心身の中にある「何か別のもの」を見つけ出した昔の人たちが驚いて
「聖典」「経典」に残してくれた事で、
私はこの「心」のイメージが単なるイメージでは無く、本来、人間に宿るものかもしれない、という共通性を知り、嬉しい気持ちになりました。
この「(神秘…神を)発見したぞ!」と言うのが
自分の中にあるのは、単純に、とても嬉しいのです。
これが古来から
「これ、本当なのか?自分も悟りたい!」と思わせ、古来の修行者を修行に邁進させた純粋な気持ちかもしれません。
ヨーガでは「アートマン」は一人一人、全ての人に宿ると言われ、宇宙の成分と同じだといわれています。
実は、この一年理由があって、私の映像記憶が全く薄くなってしまいました。
この1年で過去の映像が無くなっていきました。
なので、これらの「心のかたち」の映像も、いつでも私の中にありましたが、消えてしまいました。
ヨーガとはイメージを多分に使用して行うため、私にとってはとても残酷です。
良くなると信じていますが、分からない状況です。
世の中には、いい運命も悪い運命もあります。
その瞬間や、時代に翻弄されて、一瞬にして変わる場合もあります。
私にもそれが起きました。
長引くコロナ期やウクライナの侵攻の中で、
また元首相の暗殺という事件もありましたが、
多くの人にも今、起きています。
しかし、私の場合、映像は消えても、心に「ある」記憶は、幸いなことに消えませんでした。(ですから詳細に書けるのです。)
私の如来、「心のかたち」も、「ないけれどもある」と言うことを再び深く思うために、消えていったのかもしれない。
全ての人が同じ経験をする訳ではありません。皆と同じように「無いように見えて(私の中に)ある」事を再び学ぶために、これを受け入れざるを得ませんが、
自分の出来事と世の中の事象を重ねて、世の中の心の安寧を願う気持ちがより一層高まりました。
皆、救われたい、平和でありたいと願っています。
私も救われたいです。そうありますように。
朱音
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