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心のかたち④(映像を無くして)

更新日:2022年11月7日

…前回からの続きです。


「瑜伽行唯識派」は仏教の一派ですが、

その中でも「如来蔵思想」

仏教の中でも、非常にヒンドゥー教的な発想で、胸の中に「如来」が存在する、と設定しています。(仏教は基本、何か普遍的なものが「ある」とは定義しませんが、如来蔵思想は「ある」のです。)


これはヨーガ哲学の「アートマン」(肉体に宿る魂=宇宙と同じ)と言われる存在としか思えませんが、


だからこそ「瑜伽行唯識派」「ヨーガの行によって悟る一派)という、肉体の修行を経て悟りを目指す派閥とされています。


私の中の女の子は、

私が「苦しいけれど、悲しいけれど、つい無理に笑ってしまう時」

というシチュエーションのみに現れる存在でした。

そして20代の、病気の1番苦しい時期に

「そうやって子供の頃からいつでもいたのに、今、気がついた。昔からずっと居たんだ。なぜ今頃気づいたんだろう?


と思いつくという、非常に不思議な体験をして、何とも思わずに放っておいたのですが、


更に30代でヨーガ行が身につき始めてから「如来蔵」という言葉を知り、そこにその共通性を見たのです。



「気づき」とは一斉に、大量に起こるとは限りません。

小さな気づきが、何かのきっかけで繋がって、更なる「気づき」になる事もあります。

ヨーガをやっていると、体や心について考えたり感じたりする事が多いですから、

その分「気づく」ことも増えます。


すると、いつの間にか歴史的な、普遍的な「共通性」を垣間見てしまう事があり、

それが大きな「悟り」になるのかもしれません。

そうやって時空を越えて、

心身の中にある「何か別のもの」を見つけ出した昔の人たちが驚いて

「聖典」「経典」に残してくれた事で、


私はこの「心」のイメージが単なるイメージでは無く、本来、人間に宿るものかもしれない、という共通性を知り、嬉しい気持ちになりました。


この「(神秘…神を)発見したぞ!」と言うのが

自分の中にあるのは、単純に、とても嬉しいのです。

これが古来から

「これ、本当なのか?自分も悟りたい!」と思わせ、古来の修行者を修行に邁進させた純粋な気持ちかもしれません。


ヨーガでは「アートマン」は一人一人、全ての人に宿ると言われ、宇宙の成分と同じだといわれています。


実は、この一年理由があって、私の映像記憶が全く薄くなってしまいました。

この1年で過去の映像が無くなっていきました。

なので、これらの「心のかたち」の映像も、いつでも私の中にありましたが、消えてしまいました。


ヨーガとはイメージを多分に使用して行うため、私にとってはとても残酷です。

良くなると信じていますが、分からない状況です。


世の中には、いい運命も悪い運命もあります。

その瞬間や、時代に翻弄されて、一瞬にして変わる場合もあります。


私にもそれが起きました。

長引くコロナ期やウクライナの侵攻の中で、

また元首相の暗殺という事件もありましたが、

多くの人にも今、起きています。


しかし、私の場合、映像は消えても、心に「ある」記憶は、幸いなことに消えませんでした。(ですから詳細に書けるのです。)


私の如来、「心のかたち」も、「ないけれどもある」と言うことを再び深く思うために、消えていったのかもしれない。


全ての人が同じ経験をする訳ではありません。皆と同じように「無いように見えて(私の中に)ある」事を再び学ぶために、これを受け入れざるを得ませんが、 


自分の出来事と世の中の事象を重ねて、世の中の心の安寧を願う気持ちがより一層高まりました。


皆、救われたい、平和でありたいと願っています。

私も救われたいです。そうありますように。


朱音

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